誉田千尋
題名は粉川哲夫先生にあやかった。身辺雑事・雑感をここに容れてゆく。
このページは純粋に活字ベースの情報しか載せず、写真や動画、音声、外部リンクは一切載せない方針だ。
(2023年9月29日最終更新)
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2023年9月25日月曜日
洗濯と買い物。東京に持ってゆく手土産を買う。帰ってちんたらプログラミング。古川訳『平家』読了。変な集中のしすぎで気持ち悪くなる。夜更けに気分転換に新規川を下って鷺の鳴き声などを録音。もうシャツ一枚では寒い。
全然作品が作れていないという焦り。なぜ自分はこうも手が遅いのか。苛立たしい。そして手軽に展示ができる場所が欲しい。
「ありえたかもしれない」——ということは、現実には決して「ありえない」ということだ。それは「この道しかない」という自民党の新自由主義的なスローガンと驚くほど似ている。なぜか。なぜそうなってしまったのか。
2023年9月24日日曜日
誰か「改造論」を書かないだろうか。なんのことかというと、ひと昔まえ男の子たちの間ではやったモーター駆動の車両型プラモデル「ミニ四駆」の人文的な考察である。
漫画やアニメは想像界のことだけを考えればいいからいわゆる「文系」の人にはとっつきやすいのかもしれない。あるいは文芸批評や映画理論のような深い蓄積のあるものを流用しやすいのかもしれない。ミニ四駆も漫画やアニメと連動したマルチメディアな広がりを持っていたから、オタク的な要素がなくもないが、抜本的な違いがある。子供たちは、ガンプラは作れても本物のガンダムパイロットにはなれない。だがミニ四駆を作った子は本物の「ミニ四レーサー」である。そしてレーサーの創意に富んだ「改造」によって、彼のマシン(ミニ四駆の本体のこと)は実際に強くも速くもなりうるのだ。だから、「改造」とは何か?それをどう捉えるかが、「ミニ四駆文化論」のキーとなるような気がするのだ。
ミニ四駆の改造に関しては、有名な逸話がある。ステアリング機能がないミニ四駆は自律的に進行方向を変える事ができないので、高い壁で縁取ったブラスチック製の専用コースで速さを競う。マシンは車体に付属したダンパーをその壁にこすりつけるようにして進行方向を変え、所定のレーンの内側を走ることになる。ある少年が、ダンパーに洋服のボタンを釘付けにしてレースに参加した。ボタンはコースの壁に当たり、ころころと回転してマシンと壁との摩擦を和らげたので、彼のマシンは減速せずに素早くカーブを曲がることができた。これを見たメーカー側はこどもの創意工夫に感心し、そのような改造が様々にできる余地を製品に作り、改造用のパーツを発売することを始めた。
それは解放であるとともに囲い込みでもあった。タミヤは自社製品以外のパーツをレースで使用することを禁じたのだから。
マシン、男の子たち、『コロコロコミック』、工具と改造パーツ、おもちゃ屋と模型店、アニメ、競技会と公式ルール、メーカー、近所の空き地や駐車場、改造のためのハウツー本、ミニ四ファイター、他社の類似製品、親と小遣い、女の子のきょうだいや友達……「ミニ四駆」とは、こうしたアクターの結びつきから浮かび上がる何者かである(早めに白状しておくと、私はブリュノ・ラトゥールについては何も知らない)。
そもそもは、タミヤ模型という静岡の模型メーカーが、80年代に自社の四輪駆動のラジコンカー(RC)を、小学生でも組み立てられるようなシンプルだが実際にモーターで動く製品に仕立てて発売したのがミニ四駆だ。詳しい経緯は知らないが、そうしたメカで遊んだ子供達の何割かが、長じて自社の高額なラジコンの購買者になってくれるだろうというタミヤの期待があったのだろう。初期の製品は皆「アバンテJr.」などというふうに「Jr.(ジュニア)」という語が製品(車種)名の最後についているが、これはオリジナルとなるRC製品に対するミニチュアとして「ミニ」四駆が位置づけられていたからだ。だがタミヤのRCそのものが、モデルとなる「車種」が存在するかはともかく、原理的には、本物のガソリン車の機構を精巧に模倣したミニチュアである。
やがて子供ウケを狙ってミニ四駆が漫画化されるようになると、「親」となるRCを持たない、ミニ四駆オリジナルの車種が登場した。つまり、漫画の主人公や敵役が持っているマシンがそのまま製品化されるという流れが生じたということだ。オモチャ化したといえばそれまでだが、面白いのは、このようなミニ四駆の独立にもかかわらず、RC特有の表象が残存し続けたことだ。それは車体から露出した「サスペション」である。要するに、実車にも必ず搭載されている、路面の凹凸による車体への衝撃を和らげるバネの部品だが、タミヤはこうした複雑な機構をもRCに実装しており、それが外装に覆われずに外部に露出した形態をとっていることがままあった。それを受け継いだ「ジュニア系」のミニ四駆もまた、そのようなサスペションの形態を真似たプラスチックの塊をマシンに付加した。で、漫画をタネにしたオリジナルのマシンにも、実際には機能しないお飾りのサスペションが付属した。
それは改造とどう関わるのか?フェティッシュ化したサスペションはミニ四駆改造の最終目的を示している。大きなサスペションとそれが暗示する無舗装(オフ・ロード)の大地は、四輪駆動車の故郷だからである。
話を戻すと、成長した男の子たちはRCを買わなかった。そういうものから卒業したか、ミニ四駆をやり続けた。景気の悪化、娯楽の変化などの要因を語ることもできようが、かれらは何かの代替品ではない「ミニ四駆」そのもの面白さを発見していた。
ミニ四駆の年齢層が上昇するにつれ、改造の質は変容した。子供達のブリコラージュ的な、縄文土偶のようなマシンに、合理的で、高い工作技術とカネが注ぎ込まれたスマートなマシンが取って代わった。「オヤジマシン」という語がある。父親が自分で作ったマシンを子供に渡してレースに出すのである。このような競技を前提にした改造の変遷を辿ってゆくことで見えてくるものは何か。
ミニ四駆は放縦な想像力を抑制する。また性的なものが希薄だ。漫画やアニメの中に登場するミニ四駆がどんなに荒唐無稽で神話的であっても、ある種の真面目さが保たれている。なぜならミニ四駆は現にここにあり、スイッチを入れて走らせることもできるからだ。「ミニ四駆漫画」におけるミニ四駆はあくまでミニ四駆であり、マシンと子供達との関係は、あくまで現実のマシンと子供たちとの関係の延長線上にあり、巨大ロボットと少年といった大げさな関係に変容することは決してなかった。それは保護者を安心させる材料にもなったかもしれない。公認競技ではルールを遵守する紳士たることが求められる。それは模型という大人の趣味(ホビー)の世界の入り口でもある。
90〜ゼロ年代にはミニ四駆人気にあやかろうと多くのメーカーが類似商品や改造パーツを発売したが、当然のことながらタミヤはそのような製品を排除しようと躍起になった。また、公認競技規則(ローラーは6個まで、などといった)をそもそも度外視し、いかに速いマシンを作れるかということのみを探求する者もいた。これは私の推測でしかないが、このような探求の中から、「井桁」などの競技規則ギリギリの高度な改造法が編み出されたのではないだろうか。
タミヤ模型の真面目さと、その外部の有象無象。改造の自由と制限の狭間で、タミヤ、追従する企業、そして子供たち(若者たち?)はどのように振る舞ったのか。
女の子の役割。塗装などをしてミニ四駆を「かわいく」飾り立てて楽しむ女子がハウツー漫画に描かれるが、そのようなことをする人は実在したのか。一方で、タミヤは「女の子向け」の改造パーツを発売したようには思えない。
「ベイブレード」や「ビーダマン」のような、同時期に流行したカスタマイズできるおもちゃとの比較。
「つくば」的な想像力に彩られた『爆走兄弟レッツ&ゴー!』における、GPチップと称する人工知能を搭載した自律式ミニ四駆は、今日問題になっている電気自動車と自動運転技術そのものである。爆発的な人気を誇った『レッツ&ゴー!』を観てミニ四駆を作った世代は今30〜40代、かれらが社会的な力を増してゆくにつれて、かれらの内なる「ミニ四駆的なるもの」はどのように社会に発現するのか、あるいはしないのか。
2023年9月23日土曜日
古川日出男訳『平家物語』に熱中し過ぎて昼夜反転しかかっている。
要するに、私は作るのが怖いのだ。
2023年9月22日金曜日
職場で個人のSNSの使用についての注意が与えられることはよくあることだが、企業は従業員や就職希望者の思想や習慣や消費パターンをチェックするためにSNSを利用しもするようだ。では逆にいい若いもんがSNSその他の手段でネット上に自己を晒すということを一切しなかったとしたら、そのことは人事課やその手の業務の下請屋にとってどのような判断の材料となるのだろうか。
広沢瓢右衛門『雪月花三人娘』(1976)レコードを入手。小沢昭一の『放浪芸大会』で最初のところだけは聴いていたが、そのときは浪花節というものがどういうものか知らなかったのでこんなものかと思って面白く聴いただけだった。虎造はじめ色々聴いてから改めて2枚組LPを通しで聴いて、その異色に驚いた。小沢は当時一般的だった浪曲の重苦しい義理人情の世界のイメージに対比させて、瓢右衛門の芸の「軽妙洒脱」を強調し、桃中軒雲右衛門以降の大劇場で忠君愛国を重厚に謳いあげる「浪曲」に対して、寄席で膝付き合わせて演じるケレンに満ちた庶民の娯楽としての古き良き、だが失われてしまった「浪花節」を称揚する。瓢右衛門師の人柄の魅力も合間って、その主張にはかなりの説得力があるのだが、私が『雪月花』を通しで聴いてもっぱら感じたことは、この演目が今日録音で聴くことができる戦後の浪花節の多くとは比べ物にはならないほど複雑なストーリーを擁しているということだった。まるで現代音楽を聴いているようだった。その複雑さの質をひとことで言えば、聴衆の記憶力を試すようなところだろう。思い切った場面転換のあと長々とその話題が続き、いつになっても前の話との脈絡がわからないが、突拍子もないところで以前の場面の登場人物が現れる、というようなストーリーの作り方だ。伏線が長いのだ。
『雪月花』は「新聞(しんもん)読み」という浪花節の古いジャンルに属している。字面の通り明治の新聞の連載小説などをもとにした浪曲で、70年代当時これができる人はすでに瓢右衛門しかいなかったそうだ。小沢も『雪月花』の複雑さを認識しているが、「何やらゴチャゴチャしてよくわからんが、とにかく面白いんです!」というふうで、あまりその点には深入りしない。『雪月花』の物語の複雑さ——伏線の長さ——は、すでに活字ベースで完成した長編小説(おそらくは新聞連載)を音声化するという過程を経ていることによるのではないだろうか。それはオング的な「声の文化」か「文字の文化」かという分割では割り切れない、極めて近代的な——おそらくそれゆえに、今日ではとても古びた印象を与えもする——話芸の実践なのだろう。
2023年9月20日水曜日
周作人『日本談義集』より、日中戦争前の殺伐としたサウンドスケープ。
「宿で自動車のブーブーと音を出しながら突っ走るのが聞こえるたびに、近所の子供はその真似をして「korosuzo korosuzo!」(殺すぞ殺すぞ!)とはやし立てた。自動車の音がそういっているというのである。金持ちの自動車の効用は、平民から見ると、利益を追ってとび歩くそのデップリした実業家を運ぶというよりは、あたかも軍閥どもが拠り所とたのむ銃剣に似て路上で人を傷つけるための凶器に他ならぬのであった。」
ほかにも当時の好戦的な右派思想に染まった者は決まって極度の浪花節愛好家であった、という観察など興味深い。
仕事の関係でJavaScriptの勉強をはじめた。いずれ作品にも使えるだろう。JSはPureDataでも扱える。
制作はたいして進まず、仕事を終えてすぐ寝てしまう。
2023年9月19日火曜日
腐った飯を食べて食あたりになる。命懸けの吝嗇は吝嗇ではない。ただのバカだ。すぐに異変をきたして元気にゲーゲー吐けるのはある意味で若さの証拠なのか。菌だかウイルスだかの特性なのか。
「乃木将軍」、「吉田御殿」聴く。寿々木米若の良さが少しわかってきた。
一度組んだPdパッチをまたバラし始める。しばらくはこの繰り返しが続きそうだ。
2023年9月18日月曜日
じじいばばあの日。私がいうのではない。近所のスーパーの張り紙にそう書いてあったのだ。「乞うご期待!じじいばばあの千本引き」。昨晩同じ店で、値引の弁当を抱えて何食わぬ顔してセルフレジを素通りしていくじじいを見た。少なくとも目の悪い私にはそう見えた。世知辛い世の中である。
数ヶ月前に作ったPureDataパッチがどこにあるのかわからない。が、もうどうでもよい。とりあえずプログラミングは進展している。生きている意味が欲しければ、手を動かすことだ。ロルフ・ユリウスと池田亮司が意気投合してスペクトラリズムに転向したような、きれいだが妙に古臭い音が聴こえはじめた。
インターネット、インターラクション、インターフェイス、インター・コミュニケーション……。90〜ゼロ年代の遺物たち。
インター・フェイス。「インター」と「フェイス」をあえて切り離して口に出してみる。コロナで皆が遠隔で意思疎通していたときにこの概念についてよく考えた。zoomの画面越しに見える人の顔がマスクをしていることはなくはないが概して少ない。zoomの画面上でコミュニケーションすることとマスクをつけてしゃべることは、飛沫に含まれたウイルスが他方から他方へと移動することを防ぎつつ、タイムラグの(ほとんど)ない意思疎通を可能にするという点において等価である。それらは顔と顔を切り離すことと媒介することを同時になす。だからマスクをしている人間がzoomの画面に映っている光景は同語反復的である(喫茶店のような不特定多数の人間のいる場所からネットにアクセスするような状況は例外だ)。このようなインターフェイス理解は、PCのキーボードやGUIのようなものにも当てはまる。私は咳やくしゃみをする知人とウイルスを共有したくないのと同様に、二進数で思考する他者と機械言語を分かち合いたいという気持ちはさらさらないので、計算装置にとっては非本質的な様々なデバイスを用いてあちら側に働きかけようとする。このような点に重心をおいて考えるなら、インターフェイスは「保守的な」概念である(これは「保守的」だから悪いとか、どこぞの政党に近いなどという意味ではない)。
2023年9月17日日曜日
あたらしい生成プログラムはボイスの大まかな構造を作った。繰り返しのパターンをどう構造化するか、ランダマイザの挙動、これらが目前の課題。また複数種のボイスを用意するなら作業はその分増える。パラメタの生成に怪しげな進化計算アルゴリズムを使わず、より簡潔な方法をとるというのが今回の大目玉だが、これはまったく未着手。
月末イメージフォーラム・フェスティバルに行くための宿や東京行きのバスを予約する。川添さんの回も観なければなるまい。「林(誉田)は上映会場には絶対姿を現さない」などど言われているようではよろしくない(だが東京の住人は無邪気で傲慢である)。それにしても藝大の修了制作展でおそろしく小さな音量で『とおぼえ』を掛けられたのにはひどく応えた。あのような音量で上映されたのは単なる不手際か? 所詮私は映画音響という巨大な技術産業システムの外部にいる人間なので、いくら検索しても本を読んでも確信が持てない。楽しみでというより義務・責務として、東京にいかねばならない。とはいえ会場はイメージフォーラムだから、あまり心配はしていないが。
去年の4月に書いた文章を見つけた(以下に掲載)。
***
毎日ウクライナからの報せを耳にする。
「30代」、「低所得」、「低学歴」、「男性」である私には、兵隊にゆくということが、いまの生活の延長線上に、さほど違和感なく見えてくる。自分を重ね合わせてもっぱら想像するのは、自衛のためにみずから銃を取るウクライナの人々ではなく、プーチンの手足になっているロシアの平凡な若者たちのほうだ。誘い文句につられて身体も思考も拘束され、命懸けのキツい肉体労働に従事し、恐怖にかられ右往左往して自暴自棄になるうちに知らぬ間に犯罪人となり、死ぬか、生き延びても人々からの憎悪にさらされ、罪悪感にかられればいいほうで、自分のしたことを理解することすらできないかもしれない。
いまの生活に延長に「兵隊」があるといっても、私は人を殺す仕事をしたことがないから、やはり観念的な想像には違いない。それにもかかわらずそれが自然に想像できると思うのは、兵隊はつらいおシゴトであるという理解があり、それには到底及ばないにせよ、つらいおシゴトは日本にもたくさんあるということを身をもって知っており、いずれにせよその辛さの根底には、人間は使い捨てであるという事実があるからだ。
年末の物流業界は繁忙期で、短期アルバイトなどの勤務形態で人をあつめて、基地に集積された膨大な量のクリスマスギフトや歳暮をさばく。巨大な仕分け場での人員への指示は、スピーカーからの音声でなされるが、音質が悪くて何を言っているのかさっぱりわからない。各場所にマークをつけるとか、新参者に分かり良くするような工夫もない。作業場の勝手がしれず、指示されなければオロオロするしかない家畜の群れのような短期労働者たちは、傍目にはいかにも愚鈍な連中と映り、押し寄せる荷物の山と仕分け作業の混乱の中で自らもパニックに陥っている社員の怒りのはけ口にされる。年季の入った社員のおばはんが、「余計なことを考えるな」と拡声器に向かって怒鳴る。作業者が考えずに済むよう采配を振るのが彼女の役割だが、指示の内容は伝わらない。彼女には考える余裕がない。ここでバイトが働ける期間は年末の1ヶ月か2ヶ月だが、1週間でてきめん腰痛になり、社会保険などあるはずもなく、何年経ってもそれが治らない……。笑えない、情けない話だが、このような情けなさの果ての果てに兵隊たちがいると、私は本気で考えざるを得ない。
事実上の戦争の開始を宣言するプーチンの動画を見る。彼は執務室のような場所にいて、大きなデスクを前に椅子に腰掛け、カメラに向かって話している。顔はカメラに対して正面を向いているが体は斜めで、両手はデスクの端に触れている。風呂から身を乗り出して喋っているようだ。あたかも次の瞬間襲いかかってくる敵に備えて、トーチカのように頑丈なデスクに素早く潜り込めるよう身構えているかのようだ。その姿はかれ自身の臆病さを表しており、滑稽であるが、彼の向かって右後ろに見える3台の電話機——とりわけ目を引くのが様々なボタンがついた特殊な電話機——が私を凍りつかせる。あくまで私の想像だが、その機材のなかには、大統領の声を暗号化し盗聴を防止する、「ヴォコーダー」という装置も用意されているのではないか。3台の電話機は、ソビエト的権力の源泉にある官僚機構と諜報機関を集約した象徴として、最高権力者のそばに物言わず控えている。そんな印象を受けた。
***
ロシアにおける電話と権力、音声暗号機としてのヴォコーダーについては:
平松潤奈「ソルジェニーツィン『煉獄のなかで』における声」(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)
デイヴ・トンプキンズ 『エレクトロ・ヴォイス 変声楽器ヴォコーダー/トークボックスの文化史』新井崇嗣訳(P-Vine Books)
2023年9月16日土曜日
方法芸術とブルシットジョブ。コンピュータを使ってしかるべき方法で処理すれば一瞬で済むような退屈な仕事を、膨大な労力をかけて手作業で、当のコンピュータのためにやらなければならないというそのアホらしさ、その屈辱を、方法主義者たちは予見していたのではないか。
新しいプログラムを作り始める。4年間使い回してきた音響生成アルゴリズムに終止符を打つことになりそうだ。
養老で作っているもろこの佃煮がおいしい。煮過ぎずぱりぱりと骨が残っている感じが良い。魚は臭みがなく脂が乗っている。小さな魚なのに一匹一匹ワタを抜いている。モロコは川や湖沼にいる雑魚だからぼうふらや糸みみずを食べているかと思うと佃煮になった奴を食べる方が気持ち悪いから、念を入れてワタを抜いているのだと想像する。川魚料理は手間が掛かる。
2023年9月15日金曜日
ルドガー・ブリュンマーのZKMでの作品をYouTubeで聴く。いかにもなコンピュータ音楽だが、ブランデンブルク協奏曲よりかは構成面の参考になるか(本当に?)。静寂の多い、古典主義的な時間構成。興味深いヴィデオである。芸術家は無人のスタジオにひとり、高級そうなデスクチェアに静かに腰を下ろしている。暗くて広い空間に小さな照明が星々のように灯っている。彼の前にある机には音響を制御するコンピュータやミキサー、マルチチャンネルスピーカーの出力を監視しているらしいCGの表示されたディスプレーがあるが、作曲を終えた彼にはもはや何もすることがない。自らの創造した除菌されたアンビエントミュージックのようなものに浸っている。作品は2020年のものだそうだが、30年前に撮影されたのではないかと思わせるような奇妙な古臭さ。はっきり言って私は賛同できないが、それは音響作品そのものよりむしろその映像が暗示する芸術観に対してそのように思う。
2023年9月11日月曜日
昨日豊田で「波音と夏の午後」。お客は30人程度。脱落者は多くなく、イベントを知らずに途中から入ってきた人もいたようだ。レクチャー後、金子さんの声は枯れていた。人が多いせいかラジカセの音量が小さかった。また、大抵の人間は音源より光源についていくものだということを改めて知った(夏の虫のようなものである)。山田さんとラジカセは別個の表現をするというスタンスだったが、「映像流し」の射出するさざ波のイメージと、ラジカセが放射する潮騒の印象があまりにも違うということを本番中に気づいた。鈴木さんは絵はがきのアイデアをいたく気にいってくれたが、肝心のラジカセをどう思ったのか、微妙な感じがした。30数枚あった絵はがきはすべて配り切った。
あとでIAMASの学生の人に聞くと、ラジオのヴォリュームの操作で波の音を作っているということに気づかなかったらしい。金子さんもそんなことを言っていた。知人の感想を聞いたのだろう。くだんのIAMAS生の人はパフォーマンスのあとでラジカセを「演奏」していたことを知って驚いたそうだ。その驚きを万人に共有できるようなデザインが必要だったのだろうか。あるいは、それはひそやかな秘密でよしとするのか。イコンはそれと気づかれないということをも含む。E.コーン的なテーマが回帰してきたが、波音の「録音」だと思ったものが人力で演奏された電波ノイズだったということはどんな問いを孕んでいるのか?それは古い観光地の絵はがきやベンヤミン(のダミー)とどう関わりを持つのか?ラジカセで模擬された波音はアウラを持つが、カセットテープに録音された海の音はアウラを持たない?それはどちらでもよいが、そもそも「夏の午後」という言葉に引っ掛けてベンヤミンを持ってきたわけだが、彼のアウラの説明は環境のアンビエンスの記述だというモートンの読みを踏まえてのことだ。「波音と夏の午後」自体が、環境芸術のレクチャーと特殊なアンビエンスの創出の実験なのだから。
私は「コンセプト」という言葉を使うより、表現を構成した者の「思慮」がどうであったか、どうあるべきか、ということを考えたほうがいいのかもしれない。
2023年9月6日
夏休み休暇を取ったがさしたることはしていない。うだうだと新しい作品のプログラムを作ろうと試みるがはかどらぬ。モニタヘッドホン到着。夕方豊田市美の打ち合わせでようやく生きている気になる。
新作案
6作品1組の連作。
バイオミメティックな音響とスペクトログラム。
電源交流50または60ヘルツが作品の基調音となる。
こまごまとした文字がイメージシンセシスで現れる。
ゆったりとした時間の進行。
1作品15分程度?
シアター上映またはインスタレーションに展開。
使いまわせるルール…クワクボさんを意識する。
「ナハトムジーク」よりも音楽性を重視する。音だけでも成り立つよう。倍音列と場合によってはリズム。
3次アンビソニック ?
低音の使い方の研究。
REAPERのトラックの賢い整理方法を研究。
音源をレコードにして、展示空間で爆音で再生、その場でスペクトログラムを生成…とか?
2023年9月5日
ウェブサイトに上げたSNSについての文章を門田君に誉められる。
2023年9月4日月曜日
「やりたいことがたくさんある」にも関わらず何も実現していないとしたらなぜか。
A. 才能がないから。
B. 努力が足りないから。
C. 精神的、物質的貧困が様々な活動を困難にしてきたから。
D. 「やりたいこと」がたくさんありすぎて集中できないから。
E. リスクを負うのが怖いから。
F. そもそも実現不可能なことを望んでいるから。
G. 本当はやりたくないから。
あるいは、何がやりたいことで何がやりたくないことかもわかっていないのではいか。それはやらないとわからないのではないか。
2023年9月3日日曜日
ビッカフェに行って茶を飲む。
駅前の老舗蕎麦屋で鶏の入ったそばを食う。
美術手帖のプレミア会員になる。そのことをいつまで覚えているだろうか。
ソニーのモニタヘッドホンを注文する。
大和田俊のことを意識する。昔本郷で見た。あの匂いは覚えているが、大して関心も持たなかった。5、6年前のことだ。彼は85年生まれだそうだから、だいたいいまの自分の年齢だ。
ひとつのアイディアで様々な作品が作れるということは重要なことだと悟った(桑久保先生、今更です)。絵描きや彫刻家は、たくさん作品を作る。いわゆるトラックメーカーもそうだろう。大和田のようなインスタレーションの作家は、作品の単位が違う。ひとつの作品が展示を重ねるごとに変わっていく。そういう場数の量が、画家にとっての画布の枚数にあたるような経験とキャリアになるのだろう。あるいはインスタレーションは音楽イベントの興行に近いものなのか。
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