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ラジオを聞くだけでも楽しいよ 《ゆっくりラジオ》解題

※この文章は、2025年に岐阜市で開催された小個展「ゆっくりラジオ」のために執筆され、会場で公開された。

 《ゆっくりラジオ》は、東京のアーツ千代田3331内にあったスペースで開催されたグループ展のために、2021年に制作された。

 「粒光」と題したその展覧会は、ざっくばらんにいえば、時空間と諸存在のたゆたいと照応といったものがテーマになっていた。そして立地的にやや強引の感もあるものの、「アキバタマビ21」という名のついたそのスペースは、秋葉原という土地(のイメージ)に何かしらを負うているらしかった。同時に、その展覧会では、展示会場の場所性にフォーカスを当てた作品を制作することが期待されてもいた。

 その頃私は、インターネットに接続されたコンピュータは正確な時刻データを取得できるというごく当前のことにいたく関心を抱いていた。他方には電子音楽とコンセプチュアル・アート——声と言葉の魅力——があり、手元には電子街で買ったFMトランスミッターの組み立てキットがあった。

 私が構想した作品は、ニコニコ動画でよく知られた合成音声AquesTalk(通称「ゆっくりボイス」)の声で、時報を含んだラジオ放送を行うというものだった。合成音声の「収録」は、展示空間の「ライブな」環境で行われる。ゆっくりの声は、展示会場に設置されたスピーカーから、会期中常に発話される(もちろんスピーカーは、特定の時刻に合わせて音源を再生するPCに接続されている)。スピーカーの前にはマイクが置かれており、ゆっくりの声は会場の環境音とともに収録される。収録された音声はリアルタイムには電波に乗らず、PCの内部で24時間の遅延が加えられたのちに、低出力のFM送信機から放送される。鑑賞者は会場でラジオのスイッチを入れることで、前日の同時刻に起こった出来事を聴くことになる。ところが前日のゆっくりの話の内容や、装飾的に挿入される信号音は、今日、目前で収録されている音声とほとんど同じだったりする……。

 身も蓋もない言い方をあえてするなら、私は「アキバ」的なるものを自分なりに抽出(オタクの街=動画投稿サイト&電気の街=ラジオ)し、これまでに培った知的・技術的スキルに引き付けて「作品」とすることで、展覧会の要求(会場の場所性を引き受けるということ&森羅万象のコレスポンデンス!)をクリアしようとしたのである。

 語りかける相手が不在のなかで日付や時刻を喋る機械のイメージは、レイ・ブラッドベリの小説『火星年代記』からの借用でもある。その終末的なイメージは、ロックダウンが解除され、「ニューノーマル」が模索された当時の雰囲気になんとなく相応しいように思われた。

 他方で、ともすると安直なスピリチュアリズムに陥る危険性をもった展覧会のテーマに対して、「ひび割れ」のようなものを持ち込む意図も私にはあった。この作品は時空間に浸透する声/コトバといったような神秘主義的で全体論的な世界観を提示しようとしているように見えて、その実、どうすれば過去と現在の音を分離し、そのレイヤー性を保ったまま同一空間内で提示できるか?とか、音声信号に正確に24時間の遅延をかけるにはどのような方法が適切か?などというような、局所的である意味偏執的な探究に重点が置かれている。同時に、それは私たちの感性の基盤を形作っているであろう情報インフラそのものを主題化させている。

 とはいえ、時報(実はこれは、ラジオとニコ動の意外な共通要素でもある)を用いた作品を制作していた背景には、それによって、「絶対音楽」という概念にも似た、自己目的的で「純粋」な構造(システム)を作品として提示することができるのではないかというモダニスト的な思惑もあるにはあった。念頭にあったのは、私が117番時報電話に見出した「美」であった。ややナイーブな話ではあるが、時間なくして音はないのだから、「時を報せるために作られた音」には同語反復的な響きがある。ましてやインターネットが普及した現在、実用面で電話で現在時刻を知らなければならない状況はごく限られているので、117番は目的性からも解放され、自己完結している。それはある種の「崇高」なのではないか? 結局私はこのアイデアを突き詰めることはしなかったが、作品をマテリアルや視聴覚的な表象というよりむしろ、システムや擬似的なインフラとして定義・構成する《ゆっくりラジオ》の態度は、117番時報電話からの影響である。

 自己目的性や同語反復というテーマは、形を変えて活きている。ゆっくりはゆっくりしゃべり、放送は遅延し、その語りの内容は、時の移ろいや「できごと」としての音を暗示する。そしてその声の主は、意思なき「できごと」としての音(合成音声)としてしか存在しない。

 今回の展示にあたって、私は「解説」や「ステートメント」といったたぐいの文章を用意しないつもりでいた※。しかしながら、やはり何も書かない訳にはいかなかった。私はこのような作文を公開することで、自身の制作物に関する言説をなかば強引に構築しようとする。しかし、鑑賞者はこれに抗うこともできる。読まなくてもいい。ラジオを聞くだけでも楽しいよ。

 その理由の一つは、目的論的な語りにたいする懐疑である。私は企業や自治体のPR動画から助成金の申請書類、就活生の「ガクチカ」にいたる、今の世の中に蔓延している陳腐で型にはまったストーリーの生産に対する強迫観念に辟易している。

 近頃芸術系の分野でよく耳にする、「アーティスト・ステートメント」だの「コンセプト」だの「ポートフォリオ」だのといった言葉は、使われる状況によってはどことなくお高くとまった感じがするし、どことなく新自由主義的な匂いがする。「業界人」と「一般人」を峻別するカタカナ英語の横行からは、グローバルエリートの価値観に擦り寄らなければ明日のまんまが儘ならない、文化生産者の悲哀が透けて見える。私は何がしかの表現者として、自身の活動をプレゼンスするということそのものに再帰的な眼差しを向けざるを得ない状況にあると感じている。